大岡信さんと志村ふくみさんの桜染めについてのやりとり、感動です


きのうの大岡信さんのエッセイ「言葉の力」の後半の部分でーす
ここからの、志村ふくみさんとの桜染めについての会話のエピソードは、何回読んでも感動しちゃう~~
満開のさくらの木の下で撮った写真と、落ちていた折れたさくらの枝の写真も一緒にアップしちゃいました。では、どうぞ~~~
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実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。
志村さんは続いてこう教えてくれた。 この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。
桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。
春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。
花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。
桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。
しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。
言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。
一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。
そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。
美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものに なるだろう。>
以上でありまするるる
ちょっとかための文章だけど、実際にさくらの中にいると感覚でわかるような気がしてくるから不思議。毎年、ある時から何も咲いていないのにさくら並木の木々がふわぁっとかすかに銀色から淡いピンク味を帯びるように感じていたのは、こういうことだったんだなぁ・・・