🌠🚀定基、なんと!驚くべき転身を・・🚀🌠

前回の続きで~す🌸🌸🌸力寿を弔った定基は都へと戻り、再び以前の生活=エリート街道にて政務に励みます。が、一見昔通りに見えても、皆さんもお察しの通り、心の中では大きな変化があったのでしょう・・・定基翌年の春(おそらく春)🌸なんと!!!突然、全く違う道を歩きはじめるのでっする!何だかわかる?当ててみて❔(。´・ω・)?❓😘

同僚も家族も友人たちも、彼を知る他人も、誰もが全く想像していなかった、急転直下の展開!!!🚀🌠周囲から期待されながら邁進してきたエリートコースも、家族も、都での栄華も、地位も名誉も財も、何もかも、✂髪さえも捨てて、出家したのでっする💣⚡😱⚡💣家族にとっては💣凄まじい破壊力を持つ転身!⚡👹実際、元妻はずうっと恨み、後に、都で偶然、貧しい僧として、薄汚い姿で物乞いをしている元定基=寂照に出会い、「こうなったらいい気味って願っていた姿に落ちぶれ果てて、ざまあみろだわ」と恨みを吐き捨てたという文章も残っています。(多分、書き手の創作だと思うけど、でもあり得るかな?元妻的には仕方ないよね?👹⚡)🦌🍁🦌🍁🌲🌲🌲僧侶となり「寂照」と改名した定基は、一途に仏の教えの道を歩みます。(この名前も有名なので覚えておいてね?)🍁🐰🦁。ある時、求道の途中、⛰名僧・恵心僧都たずね比叡山に登り⛰、乞うてその弟子にして貰い、よりストイックに修行を積み、次第に名僧として有名になっていきます。

🍃定基さま、もとい!寂照さま、半端ないっす。🍃😎👍💖改めて、いろんな意味でスゴイ人だったんですにゃ~🦌きっと激しく葛藤していたんでせうね・・・✨✨✨学生時代に一人で夜行バスで京都旅行に行き、訳も分からず比叡山に上ったことがあったけれど、空気がリンと澄み切って、街から切り離されたような別世界で、しかもとても寒かったことを覚えています。大阿闍梨の特集も何回かTVで見ましたが、凄まじかった・・・冬になったらどれだけ寒いのでしょう✨✨✨超初心者向けの甘口の”五体投地と発心のお経を読む課題”に挑戦した時、3日で足腰が筋肉痛で震えて立ったり座ったり出来なくなり、あまりのキツさに音を上げた経験があるので、ストイックな求道者がどれほど厳しい修行をしていたことか、想像するだけでも身震いしちゃいます~~~あ、また横道にそれちゃった(m´・ω・`)m ゴメね!

🌸🌸🌸🌲🌸🌲🌸🌸🌸ところで!この比叡山での修行時代に、定基は一度、師の了解を得て、力寿の菩提供養のために、師・恵心僧都が彫刻した阿弥陀三尊像をいただいて三河へ赴き、舌根寺の本尊とし、かつての館の近くに六光寺を建てて、比叡山に戻っています。時に34才。Mariの想像だけど、いつか、修行が一段落したら、力寿の眠る地で彼女のお墓を守りながら過ごそうと思っていたのかなぁ🌸🌸🌸🌲🌸🌲🌸🌸🌸これも史実で、多くの文献に残っています📚。そして、寂照は、師(源信=)恵心僧都の使いとして書状を持って、宋に渡り、名僧・智礼法師(ちれいほうし)に会います。⛵⛵🌊(留学僧等のごく限られた人しか渡航出来ない時代)⛵⛵⛵🌊🌊🌊そして、智礼法師からの答釈(とうしゃく)を待つ間、丁重にもてなされたそうです。初めて訪れた異国の地、名僧・智礼法師。寂照はどう感じたのでしょうか?想像の翼を広げたんだけど、凡人のMariには、なかなか思いつかないでっする🐥でも、力寿と死別した後の彼の想いや考え、すごく知りたい・・・🐣

⛵⛵⛵さて、いよいよ師・恵心僧都へのお返事(答釈)を貰って日本に帰国しようとすると、智礼法師寂照に「ぜひ、留学僧として、ここでしばらく修行しなさい」と引き留め、日本にいる恵心僧都にも自らその旨を伝えたのです。今風に言うと、🎵「ヘイYOU! ここに残ってもっと修行しなYO🌟🎵仏の道がYOUを呼んでるYO🎵仏道、YOUの天命ですYO🎵YO!YO!🌟JakuSho YO!🎵YO!🎵」みたいな?(≧▽≦)🎵 とにかく、寂照のことをめちゃ気に入ったみたいですね。🌊🌊🌊🌊🌊🌬🌬🌬🌬🌬大江定基=寂照は、そういう人柄、オーラを持っていたということでしょうにゃ😽

こうして、宋にて修行を積み続けた寂照は、日本だけでなく、宋の人々や政界重鎮たちからも尊敬されるような立派な名僧になっていきました。31年間。その間にも、様々な逸話が残っているようです。今昔物語にもいくつか語られています。仁宋帝も彼を尊敬し、「円通大師」という名を授けます。聞いたことある名前です~~~「詔して円通大師と号し、紫方袍を賜う」。。。。きっと、日本を懐かしく思う時も多々あったと思うけれど、結局は故郷に帰ることなく、杭州で人々に敬愛されながら、入滅したそうです。享年73歳とも77歳とも言われています。🌸🌸🌸🌲🌸🌲🌸🌸🌸彼の日記があったら、ぜひ、読みたいでちゅ~~🐭大切な力寿が他界した時の気持ち、その哀しみから、どう気持ちの折り合いをつけ、世界観や人生感がどう変化していったか、きいてみたい。

自分もどちらかというと、スピリチャル系の考え方が好きで「死=別れ」ではないとわかっていたつもりだったけど、実際に学生時代に子犬が病気で他界した時は、医者通いも空しく日々弱っていく子犬を看病しながら自分の無力さが悔しくて悔しくて、、、その子が他界した直後もずうっと名前を呼んで泣いて執着しまくっていたので、家じゅうがミシミシ鳴りやまなくなり、一緒に泣いていた家族から「やめなさい!もう安らかに天国に逝かせてあげなくちゃ」と、強く注意されたくらいです。その時は1週間くらい、家じゅうが昼夜問わずにミシミシ鳴ったり、棒が倒れるみたいな音がして、さすがに驚きました。でも、不思議と怖くはなかった気がします。執着しちゃいけないんだなって、おぼろげに思った記憶があります。

だから、定基にいろいろ、話をきいてみたい。自分も死が怖くないといえばウソになる。生に執着しないと、生命力が弱くなるんじゃないかって思ったりもする。生に執着するのは本能だと思うし・・・でも、破骨細胞みたいに生と同時に死も生命の営みのなかで大切だっていう話を聞くと、訳がわからなくなっちゃうし~~~でも、生きている間は生かされている命だから、大切に、せいいっぱい生かしながら生きないとね!てことは、生に執着してもいいんだよね?ね?

てことは、ガラリと日常話になるけれど、他の人や生き物の命や人生も同じなわけで、コロナの感染予防対策は、自分への、そして人への、リスペクトマナーだと思っています。